栃木からのヤマノボリ日記

登山記録とやったこと、考えたこと

20110710_前日光・方賽山_まとめ&その1

■20110710_前日光・方賽山

まとめ&その1→★

その2→★


鹿沼のオヤマに行ってまいりました。

古峰ヶ原神社を過ぎて、かな~り林道を走ったところにある前日光牧場。


下野新聞選定の栃木100名山のひとつ横根山・・・まで行くつもりでしたが途中で断念。


古峰ヶ原湿原ヨコの駐車場から前日光牧場の象の鼻展望台までのピストン。


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中央の高いところが象の鼻展望台。ガーミンだと1,360mでした。

左右の頂上部が方賽山(ほうさいさん)。1,388m。

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走行距離は12キロ。累積標高は681m。
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出発地点の古峰ヶ原湿原ヨコ駐車場。5~6台は停められるかな?

関東地方も梅雨が明けまして、メデタクこのような晴天。気持ちいいですな。


10:20出発です。

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ここから関東ふれあいの道をたどります。

とりあえずの目標は方賽山です。

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直射日光ビンビンなので、つばの広い帽子、日焼け止めクリームをたっぷり塗って出発。


でも駐車場からすぐに雑木林の中を進みます。樹木の中なのでかなりマシなはず。


それでもダラダラした坂を登っただけで汗が出ます。

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11:05(出発から0:45)。

三枚岩に到着。


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右から 弘法大師修行像、大白龍神、弁天龍神 の像が並んでおります。

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三枚岩。たしかに岩を三枚尾重ねたよう。
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金剛山奥の院とあります。
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もともと古峰ヶ原は開祖勝道上人が日光を開山する前に修行したとされているところ。



日光修験道さんのHP が詳しいのでそこから引用させていただきますと・・・


日光修験道の略史を、みていくにあたり、まず開山勝道上人の御一生の事跡よりみていくことにする。日光修験道の歴史は勝道上人に始まる。


上人は天平七年(七三五年)に芳賀郡に生まれた。幼名は藤糸、父は高藤介、母は明寿と伝えられている。子供が無いことを悲しみ、出流山の岩屋の観世音に祈請した。満願の夜、母明寿の夢に白蛇来たりて、白玉の入った金の鉢を献ずるを見、それより懐妊したという。出流の奥院の観世音は、鍾乳石であり、伏せ八葉の蓮華に後向きに立つ天然の尊像である。


上人の生誕の場所は、現在の栃木県真岡市で、衍応山勝道院仏生寺の地である。

上人七才の時、明星天子が降り、三帰依と四弘誓願を授けたと伝えられている。


御年二十歳の時、出流の岩屋で修行を始められ


三年後の天平宝字元年(七五七年)に夢に大剣峰(横根山)を見、それより大剣峰に至り、巴の深洞に入った


この巴の宿は二説あり、古峰原と横根山とであるが、古峰原は後世の深仙の宿で横根山中が真実の巴の宿であろう。

この場合は南面して居り、冬も水が涸れず流れ、岩屋もありその下に十数米の座禅石がある。そこを更に下ると、宿跡の石積みや古い五輪塔が二基立っており、そのそばに天然の石を割って桜の古木が一本ある。この場所からは粟野の加蘇山も遠くなく平安期の三代実録に盤鑿山神に従五位下をたもうとあることもうなづける。


さて、上人はこの大剣峰で修行したもうこと三ヶ年、二十六歳の時、下山し、その翌年、天平宝字五年、下野薬師寺に入門し、鑑真大和上の高弟、如宝僧都より沙弥十戒、七十二威儀を受け、更にその翌年戒壇に上り具足戒を受け大僧となったと伝えられる。この時初めは名を厳朝と称し後、勝道と改めた。この後五ヶ年、国分寺で学問し、三十一歳の時再び大剣峰に至り、これより日光開山を発願したと伝えられる。教旻僧都や道珍法師等の十哲が、上人の下に参じ、同行うちそろい、大願を起こしたのである。


でございます。日光修験道のHPは非常に面白いですので、じっくり読むことをオススメします。


さてさて、三枚岩を過ぎるとまたもや樹林帯に入ります。

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11:32(1:10経過) 樹林帯を抜けたようです。
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はい、ここが方賽山。って言っても山頂らしくないけどね。

目の前に広がるのは前日光牧場でございますな。

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その2につづく。