なつかしタカサキ_その2
高崎市役所の展望ロビーで街を見下ろしたあとは、街中を徘徊。
まずは市役所から駅に向かって歩きます。
ボクが高崎に住んでいたのは約20年前ですが、再開発でまなり変わったなぁ。
高崎駅もずいぶん立派になりました。
駅のみやげ物売り場を覗くと、高崎ダルマが勢ぞろい。カラフル。
本屋で群馬ローカルの本を物色。群馬100名山の本をGET。今年は群馬もオヤマにもおじゃましたい。
以下、ボクにしか感慨が沸かない写真ばかりです。
みずほ銀行、東和銀行。
本店タカハシ。存命でした。
足銀高崎。
オリタの焼きまんじゅう。
なんと喫茶もりえの建物も存在。営業しているのか否かは不明。
ラメーゾン。
ラメーゾンは群馬交響楽団と関係が深く・・・。解説がめんどくさいので高崎市役所のHPから引用。
■群馬交響楽団
昭和20年(1945)11月、敗戦直後の荒廃した世相の中で高崎市民オーケストラは誕生しました。戦前から音楽活動をしていた丸山勝廣が中心となり、戦後のすさんだ心を音楽で癒し、生活に潤いのある文化国家を目指して結成され、井上房一郎が会長になりました。
指揮者には、井上の仲人・画家有島生馬の甥の山本直忠を招きました。長男の直純は当時12歳でした。当初は、楽員8人のアマチュア楽団で、練習場は、東小学校わきの消防団の二階でしたが、まもなく田町の熊井呉服店の2階に移りました。昭和21年9月、その1階に喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」(音楽の家)が開店、高崎の新しい文化活動の拠点になりました。
昭和21年3月10日、第一回定期演奏会を市立高等女学校講堂で開催、18人の楽員によるモーツァルトのセレナーデの演奏や原智恵子のピアノ独奏・大谷洌子のソプラノ独唱などでした。雪が舞う寒い日でしたが、市内の文化団体「三想会」の後援を得て超満員の盛況でした。
第二回定期演奏会は同年5月、筝の宮城道雄を迎え高崎で昼夜2回、翌日は前橋群馬会館で公演しました。この前橋公演から、「群馬フィルハーモニーオーケストラ」(群響)と改称しました。昭和22年に本格的活動を目指してプロの交響楽団になりましたが、経営は困難でした。音楽の普及と資金確保のため、5月から県内の小中学校を訪問して「移動音楽教室」を始めました。「オーケストラってなんですか」と問われる中で、丸山は協力校を求めて奔走しました。「移動音楽教室」では、当時大学生であった小沢政爾もしばしば指揮をとりました。
昭和27年、高崎出身の映画プロデューサー市川喜一が群響の苦悩と情熱の活動に着目して映画化を企画、丸山の手記をもとに水木洋子が脚本を執筆し、映画「ここに泉あり」が製作されました。監督は今井正、音楽は団伊玖磨、出演は岸恵子・小林桂樹・岡田英次らでした。独立プロのため制作費はわずかで「お弁当はおにぎり二個に沢庵二切れの切なさ」と岸は回想しています。市民の積極的な協力により映画は昭和30年2月に封切られ、全国で300万人を超える観客に感動を与え、群響発展の大きなきっかけとなりました。
昭和34年、「旅する楽団」として小学6年の国語教科書で扱われ、高崎は「音楽のあるまち」として知られるようになりました。
喫茶部も健在。
お店のおばちゃんも元気で店番してました。
田町交差点から中央銀座方面を望む。
中央銀座商店街。
天華堂書店。
なんと、梅ふくもご存命。
梅ふくがある悪の巣窟。
1回しか食べたことが無いみはまのうなぎ。
珍竹林画廊(ちんちくりん画廊)。
群銀高崎田町。
かなり歩いてドーミーに戻りました。
クルマから酒まんじゅうの清芳亭。
かみつけ信組。
まちがいではありません。
群馬は、上毛野国(かみつけのくに)なので、かみつけ信組なのです。
(栃木は下毛野国(しもつけのくに))
お昼は、問屋町のシャンゴ。
蟹のトマトクリームパスタ。
定番シャンゴ風パスタ。
エスプレッソがおいしかった。
高崎商工会議所。
飯塚町の某ビル。
赤城山。なんとが全容が見えました。
家に帰ってラメーゾンのチョコケーキ。おいしー。
オリタの焼きまんじゅうも温めていただきました。なつかしいお味。
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